日光山禅昌寺は元和元年(西暦1615年)奈良県磯城郡田原本町味間の補厳寺(謡曲観世流の二祖世阿弥が出家得度の寺)第7世蘭裔守胤禅師(らんえい しゅいんぜんじ)の弟子、東庵守陽禅師により、現在の広島市中区薬研堀に創建された。 藩政時代は藩の重役である、藩医小川白堂、武術家坂小半郷昌、坂貞吉昌統、剣術家貫心流細宗関、細呑空、勤皇家木原適處、書家河原南汀等の菩提寺であり、また禅の道場となっていた。


 曹洞宗宗務所記録によると、第4世大淵龍(宝永2年2月28日寂1705年)が中興なっていることを見て、広島市史年表を見ると延宝年間より元禄にかけて、度々の水害や火災により市中は相当の被害を被っていることが推測される。当然寺も被災し之を4世大淵龍が復興されたことが窺える。 また寛政元年4月27日(1789年)8世頂眼大活代に、稲荷町より出火し179軒が類焼しこの時禅昌寺も炎上している、之を9世大智頑応(文化元年(1804)5月28日~文政3年(1820)2月18日)が復興している。この時再建された伽藍は、明治38年の震災で被害を被ったが大修繕されて昭和20年8月6日原爆により消失するまで存在していた。


 昭和40年戦災復興のため、都市郊外開発の将来を見越して、戸坂町くるめ木に境内を移転し復興した。昭和45年高度経済成長最中、物心両面の真の豊かさを求める財界の人々の後援を得て、坐禅道場「道心寮」を建立し広く大衆の禅の道場として親しまれてきた。

 昭和55年再び当地(広島市東区戸坂山根)に境内を移し再建した。此の地域一帯は古くより戸坂の聖地として口伝されていた。都市開発の波に乗り宅地として開発される運びとなっていたが、土地の古老らは宅地として開発されるに忍びないと、当山に対し境内地移転の要請があり、その因縁を結んだ。

 此の地域が聖地として口伝された所以は、造成工事中に古墳が発見されて明らかになった。開発計画の一部を変更して本堂裏山上に現状保存されている。