今月の法話

[0022] 自己の本質を見極める! (2008/07/25)


修証義 第十節
懺悔の功徳・・・
・・・煩悩即菩提に転ず・・・・

我昔所造諸悪業、 皆由無始貪瞋癡 
従身口意之所生  一切我今皆懺悔

 是の如く懺悔すれば必ず、仏祖の冥助有るなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。
 懺悔の唱え文は
「われ昔より造れし所の諸の悪業は
 皆無始の貪瞋癡 に由りて
 身口意より生ずる所なり
 一切を我れ今皆懺悔したてまつる」


 このように懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、とあります。私は、仏の冥助とか、冥加というものは、この命を授かったときより、人それぞれに授かっているものであると信じています。これを心念身儀発露白仏すべし。と言われるように、心の思いも、身も正して、仏の前に、素直に敬虔に懺悔し仏を賛嘆できるとき、己という命は仏の慈悲に包まれて他とは比べようのない光り輝ける命が授けられていることに覚めさせていただける。罪根は仏の御命の中に溶解し消え失せると言われているのです。

 道元禅師のお言葉の中に「人人分上不曾缺」という教えがあります。意味は「何人も自己の分際の上において、授けられているこの命に、少しも不足するところ無し、眼をもって見、口をもって語り、手に取って確認し、足を運んで確かめれば、何等曾て不足するところ無し」と、自己の本分に覚めて在るがままに活かされて生きることを示唆されています。

 この在るがままの自分に気づかせて戴くことがなかなか難しいところです。
 少し見識の高い人ほど在るがままの自分という意味を、理解できない人が多いように思います。それはおそらく自分なりの見識で物事に接するからではないだろうか、特に信仰となると虚心に教えに耳を傾けるとか、敬虔で素直な祈りが出来ていないように思えるのです。自己の見識から生まれるプライドが謙虚さを失い、赤裸々な自分になれないと教えが素直に受け入れられないように思います。

 反対に表には出されない、かくされた見識に謙虚な求道心を備え、素朴な信仰心をもたれる方は、おおらかで、視野が広く、包容力が豊な方が多く、接する人、誰もが爽やかな人間的魅力を感じることでしょう。
 人間の迷いの根元には、身と口と意より生まれる、貪(欲深く貪る)瞋(激しい怒り)癡(嫉妬や妬み)これを人間の煩悩の元となる三毒と言うのです。

 煩悩は私達の迷いの根元ですが、一面生きてゆくエネルギーとなっていることも間違いありません。
 煩悩の旺盛な人ほど、罪過深重を招くのは必然でありますが、懺悔の機縁に奇遇すれば、煩悩の汚泥は、仏の台ともいわれる木蓮華をさかす如く、仏の御命に菩提の華を咲かす智慧の泥となるのです。

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