今月の法話

[0023] 理想の具現 (2008/11/14)


修証義第三章 受戒入位
第十一節
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易へ身を易へても、三宝を供養し敬い奉らんことを願ふべし、西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり

 聖徳太子十七条憲法第二条に「篤く三宝を敬へ」
 三宝とは佛・法・僧なり。則ち四生の終帰、萬国の極宗なり。何の世、何の人か、是の法を貴ばざる。人尤だ悪しきもの鮮し、能く教ふれば従ふ。其れ三宝に帰らんずんば、何を以てか枉れるを直さむ。
とあることは、皆様ご承知の事と存じます。

 仏は大師なるが故に帰依す。法は良薬なるが故に帰依す。僧は勝友なるが故に帰依す。と第十三節に述べられてありますが。
 仏とは絶対無比の真理を言うのであります。之を覚り、仏としての生涯を貫かれたのが本師お釈迦様であり世に真理の道理を説き示されました。

 法はその真理の道理を説かれた教えを申すのであり。煩悩の汚泥にまみれ苦しむ衆生の覚醒を教示する、良薬なるが故に帰依すると言われます。

 僧は勝友なるが故に帰依す、とありますように、僧とは僧伽と言って、仏を崇め法を拠り所とする衆生の集団を言うのです。
 因みに、僧侶の使命はこの僧伽の形成を図り導師を担う事であります。
 お寺は僧伽のシンボルであり実践の場でなくてはなりません。

 この節に言われる「生を易へ身を易へても」と言われることは、生まれかわり死にかわりしても、何れの時代になろうとも、富めるときも貧しいときも、いかなる境遇にあろうとも、何れの民族・社会にあろうとも、三宝を供養し敬い奉ることを、疎かにしてはならないことを強調されています。
「西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり」インド中国日本へとお釈迦様から歴代の祖師へと正しく伝承された仏法とは、恭敬仏法僧に他ならない。
 前節までの懺悔によって正真の自己に目覚めたところで「次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし」と具体的に信仰の有り様をお示し下さっています。

 仏とは固有の姿形をしているものではありません。仏像というものは人間が説から想像して偶像化したものであって、仏の実像ではありません。
 仏とは森羅万象ことごとく在るがまま、あらしめているものともいえますし、私は、己を生かしめている自然の営みを仏の御命といただいております。
 宇宙の真理の営みの一姿が私という個体をなしているのです。人間としての生涯が終われば四大は分離して大自然に霧散しますから仏に還るというわけです。
 人間はこのように仏の慈悲に活かされていると言うことに気づきますと、空なるものに手を合わし礼拝することが難しく、仏の偶像を作り出したのです。ですから仏像を偶像だからといって粗末にすることは出来ません。

 法は良薬なるが故に帰依し奉る。
 真理の道理を説かれたものであり。人間の迷いや苦悩を癒し自己の本性に覚醒を促すものを佛典とか聖典と申します。仏教徒であれば、この教えを拠り所として生きなければ、真実を見失い真の自己に出会えないまま一生を終わる事になります。

 僧は勝友なるが故に帰依し奉る。
 僧伽に集う諸人は勝友であります。共に助け合い和合して活かされ合う姿こそ、仏教徒のあるべき姿です。
 三宝に帰依すると言うことは人間の生き方の基本を正すと言うことにもなりましょう。

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