今月の法話

[0025] 幸と不幸の巡り合わせは心の持ち方にある (2009/03/31)


修証義第三章 受戒入位
第十二節

もし薄福少徳の衆生は三宝の名字なおききたてまつらざるなり、いかにいわんや帰依したてまつることをえんや。いたずらに所逼をおそれて山神鬼神等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ。かれはその帰依によりて衆苦を解脱することなし。はやく仏法僧の三宝に帰依したてまつりて、衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。


 もし不幸にして三宝の御教えに出会うことが無ければ、三宝に帰依するご縁もいただけないだろう、そうなると拠り所を失って所逼(迷信)に惑わされ、道理に沿わない山神鬼神の虜となって惑わされ、真実を外れたまやかしの館にはまり込み、諸々の迷いにもがき、苦しみから解放されることは無いであろう、早く真実の教えに目覚めるならば、衆苦を解脱するのみならず、三宝の利益に活かされている己に目覚めて安らぎを得ることを示唆されています。

 迷信に惑わされる一例を紹介します。ある時四十半ばのご夫婦がやってきて、「先祖供養が足りてないので供養の法要をして欲しい」と。この方のご両親はご先祖祀りを几帳面になさるお方ですが。子供さん達と接する機会はほとんどなく、ましてや宗教や信仰の話など聞かせたことは一度もありませんでした。
 言われるままに法要を済ませて、話してみると、何か重苦しい悩みを抱えているようでした。「どうかしましたか?」尋ねますと。「息子が反抗して引きこもり、親に心を開いてくれない」人の薦めで祈祷師におがんでもらったら、「祖先の中に供養が足りてないご先祖さんがある、それが災いして、あんた達の親子関係を妨げている」と言われ、来山された旨を話されました。

 現代社会はハイテクの時代とはいえ、人は迷いが深まり考えられる解決の方策を努力しても解決しないとなると、自分たちの努力では解決できない目に見えない厄のせいにしがちです。
 またテレビの興味本位の番組などの影響を受けて、冷静な判断を失ってしまうのです。

 三宝に帰依すると言うことは、私たちが活かされている真実のありように目覚め、その道理を学び、人々の支えを頂いて努力することによって多くの迷いは晴れるはずであります。
 先祖祀りと言うことは、私という命を考えるとき「祖先」をおろそかに出来ない、命の尊厳を思うとき報恩の行為として営まれるものであります。
 言い方を変えますと、先祖祀りをおろそかにするような人は、自分の命のありように気が付かないばかりか、自然の恵みや計り知れない人々の恩恵に活かされていることにも気が付かないままに、生きていると言うことになりますと、自分という命の尊厳を自覚する思考や、深い思慮を損なうのではないでしょうか。

 従って子育てにおきましても、子供を思いやる深い慈悲心をもって接することにも気が付かなくなってしまうと言うことになりかねません。
 同様に人間の幸せも不幸せも、三宝の教えに目覚めた人と、その縁に気づかない人とでは、仏の慈悲の受け止めようも変わることでしょう。

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