今月の法話

[0026] 人間存在の原点に立って見よう! (2009/09/28)


修証義第三章 授戒入位
第十三節
其帰依三宝とは正に浄信を専らにして、或い如来現在世にもあれ、或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えていわく、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す。法は良薬なるが故に帰依す。僧は勝友なるが故に帰依す。仏弟子となること必ず三帰に依る、
何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば即ち三帰によりて得戒あるなり。


 其の帰依三宝とは正に浄信を専らにして、とありますが、帰依について道元禅師は正法眼蔵帰依三宝の巻きに「いはゆる帰依とは、帰は帰投なり、依は依仗なり、このゆえに帰依といふ、帰投の相は、たとへば子の父に帰するがごとし、依仗は、たとへば民の王に依するがごとし、いはゆる救済の言なり」とお示しになっておられます。
 「或いは如来現在世にもあれ、或いは如来滅後にもあれ」と言われるのはお釈迦様のご在世の時であれ滅後の現代であれ、何時の時代も人間の営みの基本は三宝に帰依する生き方の他に道はないのであるから、朝な夕なに合掌して南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧と唱えなさいと言われるのであります。これが仏教徒の信仰の始めということなのです。

 仏とは森羅万象在るがままの絶対なる姿=真理をいいます。法とは真理の道理をいいます。僧とは真理の中に活かされる衆生をいいます。たとえ民族が異なり、国が異なり、宗教が異なっても変わらぬ原則としてある真理を言われているのであります。
 私達人間は清浄無垢なるものということは、理想としてはあっても、なかなか現実には「清浄無垢」なる姿、生き方というものは有り得ないことであります。だからこそ三宝帰依の原点を損なわぬよう強調されているのであります。
 三宝帰依に対して私達の煩悩の抑止力となる「戒め」が必要となりますから、「其の後、諸戒を受くるなり」と申されるのであります。

 ある時、新入社員研修の講義の中で「人間は生きる権利などと言うけれど、本来生きる権利などは有り得ないのである。無条件に活かされている現実に目覚めて、人間の基本的あり方・生き方に気づかなくてはならない」と講義を続けておりました。すると一人の国立大学を出て市内の企業に就職して研修に来た若者が、私の講義に疑問を抱き聞くに堪えないといった感情を露わにして「質問!先生のお話はおかしい、憲法に基本的人権と幸福を追求する権利が保障されている云々」と激しい抗議を受けました。
 憲法というのは国が組織され、その中で人間が生きてゆく上での拠り所としての約束事に過ぎないのであります。

 私は少年の頃、友達に誘われてキリスト教の教会へ一年くらい通ったことがあります。その時に牧師さんの説教の中で「我々は神の愛を授かって人間として地上にお送り賜った。更に神は、馬や牛やこの美しい自然の恵みを人間のために地上にお送り賜った。‥‥‥」と話されたことが印象に残っていました。
 私は後に出家して仏教徒の基本は、此の帰依三宝にあることを学びました。悉有は仏性なり、有りとあらゆるもの、そのものが仏のすがたであり、それぞれに尊厳がある、といわれるのであります。
 自然は人間のためにあるのではなく、馬も牛も美しい自然、森羅万象がそれぞれの尊厳を以て存在し共に相手を活かし敬う姿が美しいのであると。
 これに対して人間は自分勝手な価値観をもち自由奔放に生きようとするものでありますから、人間は宗教を持つことにより、欲望に対する抑止力となる自己をコントロールする戒めを持たなくてはおれないのであります。

 欲望の抑止力として持つ戒めも、帰依三宝という森羅万象の基本として敬われた後に、自己規制の働きとなる諸戒を授かるということでなければ、意味のないことを示唆されているのであります。

<Back|Top|Next>
このシステムはColumn HTMLカスタマイズしたものです。