今月の法話

[0027] 仏の慈悲に誘われて生きる (2009/12/03)


修証義第三章 授戒入位
第十四節

此の帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、
設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、
巳に帰依し奉るが如きは、生生世世在在処処に増長し、
必ず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、
知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、
世尊巳に証明しまします、衆生当に信受すべし。


 前章の帰依三宝の功徳は、どのような形で現れるかということであります。
 功徳というのは広辞苑によりますと、すぐれた特質・善い行いと説かれてありますが、子供の頃からよく両親から「徳を積むとか、功徳のお陰」とか折々によく聞かされてきましたが、私は特別な行為ではではなく、日常の帰依三宝を拠り所とした、誠実な生き方が素直に結果として現れる姿だと考えております。
 感応道交というのは、感は仏の姿無き姿、声なき声に牽きよせられる気持ち、応はその牽きよせられる慈悲(愛)に答えていく営みが仏に抱かれて、我と仏が一体となって現れる姿を道交と受けとめております。
 「設ひ天上人間地獄鬼畜なりと雖も」というのは、人間の迷いは三界六道「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」を生まれ変わり死に変わりして、流転転生しながら繰り返している中にあることを略して申されているのです。然りと雖も感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、と言われるのは。
 人間の迷いが生死流転する中で、三宝帰依の功徳に感応道交すれば、生死流転する迷いが変じてその功徳は。
「時代や処を問わずその功徳は繁栄し、功徳は功徳を生んで、仏の理想郷を具現し、三宝帰依の功徳が計り知れない不可思議な智慧や力となって現れることを、お釈迦様は証明されていることを疑ってはならない」と諭されているのです。

 禅昌寺を訪れる皆さんが異口同音におっしゃることは「何時もきれいに掃除されている、門に入るなり心が洗われる」と言ってくださいます。私はこのように皆さんから言われてこそお寺としての存在があることを自負しております。
 禅昌寺が荘厳で静寂な境内を維持できている裏には何があるかを、ご理解いただきたいのです。
 禅の修行では最初に掃除の功徳をうるさく仕込まれます。それは掃除の汚れを清めるという行為と禅の修行で心の執着をはらうということと共通するからでしょう。
 境内の掃除を始め境内の静寂の護持に奉仕する職員の方々が、「禅昌寺の本尊様の聖域に奉仕させていただく、お参りにこられる皆様を清々しくお迎えする」と無心にご奉仕下さるからだと日頃より感謝いたしているところです。
 住職がお寺の職員を採用した折りに作業の分担を指示はしましたが、作業の仕方については何の注文も指示も致しておりません、従事される職員の方々は皆さん我がこととして、ご自身の納得のいくように務めておられます。
 職員の皆さんが「三宝に帰依する」という特別な意識を持って、与えられた仕事に従事されているとは思いませんが、感応道交という姿があるとするならば禅昌寺という静寂な聖域の護持に携わっている職員の皆様のお寺へ奉仕される姿そのものだと申したいのです。

 お寺の職員として奉仕下さる方々のみならず、お寺の行事・講演会・コンサート・その他その度に、朝早くから遅くまで諸々の作業に、無心に我がこととして奉仕下さる方々が在ってこそ、お寺の面目が保てていることをしみじみ思うのであります。
 無心の奉仕が何のこだわりもなく自然体で営まれる方々の生き様を見ておりますと、その方の個人的特性ではなく、生い立ちや育った環境までが滲み出ているようなものを感じるのです。
 御両親始めその方のご家庭に伝わる環境から育まれているものを感じるのです。
 これも「生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、」と諭される姿の一端と受けとめております。

 毎月お墓参りにくる人は沢山ありますが、正面の石段を登って山門をくぐって本堂正面でご本尊様にお祈りしてお墓へお参りする方は少ないように思います。
 帰依三宝感応道交の功徳の庭で心身共に洗われるお寺参りをして下さるよう願っています。

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