今月の法話

[0031] 供に養うということ (2011/07/01)


 私は、内山興正老師(一九一二年〜一九九八年三月)の「共に学び共に育つ」という言葉に惹かれ、また励まされ、これまで僧侶として生きてきました。   
 人は一人で何かを成そうとしても、一人で出来ることには限界がありますし、可能性も小さくなります。また、一人では気づかないこともあります。お互いから学び合い、みんなの力で一つのことを成し遂げると、達成した喜びを分かち合う仲間がいるという、もう一つの喜びを味わうことも出来ます。
 内山老師は、これを広大無辺な仏法(お釈迦様の御教え又は、この世の真実)を学ぶ姿勢としてお示しになられたわけです。

 私たちは、ご先祖様の供養ということを行います。供の字は左が人を現し、右の共という字は物を両手でささげ持っている姿を現しています。両手をそろえる意から「ともに」の意味が派生しているとのことです。この供養を一般的には、「生きている我々が亡くなった方をお祀りし、養いとなるお供えを捧げる」と理解されますが、それだけでは仏教徒としての行いではなく儒教的な行いになってしまいます。
 仏教的な供養の意味は、「生きている我々が亡くなった方を仏さまとしてお祀りし、供に養う」ということでなければなりません。つまり「共に学び共に育つ」ということを生きている者同士だけではなく、ご先祖様も巻き込んで行うというちょっと欲張りな行いです。例えば、ご法事の時などには、ご家族やご親戚が集まり、お花や御霊前をお供えし、お経をあげて供養をしますが、その席に居る人たちは故人の生涯を偲びつつ、様々な事を思い出したり、お話をなさったりして、故人の生涯から人生の養いを学ぶ。また、普段はなかなか会えないご親戚などと一緒に食事をなさったり、一献交わされたりしながら、お互いから養いを戴く。こうしてご先祖様のご縁で、少しでも自分の人生を深め高めることができれば、亡くなったご先祖様は、仏様として活かされますね。

 禅昌寺では、習慣としてではなく、仏教徒としての供養が成立するよう常日頃から山内を清め皆様のご来山をお待ちしております。それもまた供養です。

<Back|Top|Next>
このシステムはColumn HTMLカスタマイズしたものです。