今月の法話

[0033] 菩薩(ぼさつ)の修行 (2014/11/27)


菩薩(ぼさつ)の修行

布施(ふせ)(施しをする)

持戒(じかい)(戒律をまもる)

忍辱(にんにく)(辛抱する)

精進(しょうじん)(努力する)

禅定(ぜんじょう)(坐禅する)

般若(はんにゃ)(般若の智慧)

前回ご紹介した菩薩が行うべき六波羅蜜(ろくはらみつ)の修行についてお話しいたします。

波羅蜜とは、パーラミターという昔のインドで使われていたサンスクリット語を漢字に音訳した言葉で、
到(とう)彼岸(ひがん)又は完成という意味です。つまり彼岸へ到るための六つの修行ということになります。

仏教では、自分の欲求を満たすために右往左往し、欲望が満たされないと苦しんだり、怒ったり、
自分の欲望が満たされると、満足して幸福を感じるというように、  
欲望に振り回され、六道(ろくどう)輪廻(りんね)(天上、人間、餓鬼、畜生、阿修羅、地獄)を流転する世界を
此(し)岸(がん)といいます。

その反対に、自分の欲望を満足させることを目的として生きるのではなく、仏さまの道を求め、
そのことを誓願として生きる世界を彼岸(ひがん)といいます。

此岸も彼岸も六道輪廻も私達の生きる姿勢の問題なのですが、頭で理解するだけでは私たちの生きる姿勢や
価値観を変えることはできません。人が亡くなることを、涅槃に入るとか彼岸へ渡るとかいいますが、
本当は生きている間に、私たちの生き方や価値観を彼岸の生き方に転換させることが彼岸に渡るということなのです。
そして、そのために必要な修行とされたのが六波羅蜜の修行なのです。

布施(ふせ)とは、人に物を施すということですが、自分の所有する物や時間、
エネルギーを自分だけのものだと思わず、
困っている人がいれば、それを惜しまずに施すということです。
自分も施し施され生きているということに気づいて
生きることが大切です。目で見えることだけで、我々は生かされているわけではありません。
様々な人や自然の中でいつの間にか生かされている自分が居ることに感謝しなければなりません。

持戒(じかい)とは、書いた字のごとく戒を持つということです。
自分を戒め振り返りながら、規則正しい生活をし、心を正しながら生きていくということで、
謙虚な生活態度です。   

忍辱(にんにく)とは、辛抱することです。自分以外の人々と共存していくからには、辛抱が必要です。
自分の都合ばかりを主張していては、うまく和合できません。

精進(しょうじん)とは、努力するということで、怠けないで前向きに努力するということです。

禅定(ぜんじょう)とは、坐禅のことです。坐禅会に来ることが難しい人でも、
ご自宅のお仏壇の前で静かに正座され、心に浮かんでくることを掴まず追わず払わず、
只管坐ってみてください。
普段見落としている自己に気付き、自分自身を振り返る機会となり、心が静まります。

般若(はんにゃ)とは、サンスクリット語を音訳した言葉で、智慧という意味です。
しかし、世間一般でいう智慧ではなく、この世をありのままにみる智慧であり、
般若経が説く「空」をみる智慧ということになります。

空とは、私たちの心も体もこの大宇宙もその実体はなく、様々な条件や要素の寄せ集め(縁起)として
存在しているということです。

例えば、私自身を分析してみますと、広島のお寺で生まれた日本人でありますが、その一つの条件が違っただけで、
私の人生は大きく変わっていたでしょう。
しかし、広島、お寺で生まれた、日本人という三つの条件はどれも私が選択したものではありません。
偶然整った条件です。
その偶然に、勉強しなかった・悪さをいっぱいした・本をいっぱい読んだ・修行した・外国生活をした・結婚した・子供が出来た・住職した・など様々な条件が重ねられ、その時その時に見たもの・聞いたこと・嗅いだもの・食べたもの・触ったもの・考えたこと・など全ての経験がさらなる要素となって、この自分を創りだしてきています。
つまり、その条件や要素次第でいくらでも移り変わっていく「無常(むじょう)」な存在なのだということです。

また、この体も大宇宙も分析してみると、分子、粒子、素粒子、原子、細胞など、様々な要素が融合して構成されており、その実体は無いことが分かります。
このことを仏教では「無我(むが)」といいます。

現代の科学では、遺伝子を組み替えることにより、人間の都合に適った動植物が作られるなど、「無我」ということが実証されておりますが、お釈迦様は今から二千五百年前に、この無常無我ということに気づかれ悟られたのですから、驚かされます。

このように、大宇宙の摂理をよく理解して、人と接してみてください。人への見方が変わるのではないでしょうか。
また、ものの見方や考え方も変わっていくのではないでしょうか。

人間なんて本当にちっぽけな存在で、どんなに誇りに思える人生を送ってきたとしても、たった七十億分の一の経験と人生なのです。
ですから、本当に偉大な方というのは、常に謙虚で、自分が一番正しいという態度をとらない方が多いのだと思います。
こうして無常無我の現実とあらためて向き合ってみると、人間は頼りない存在です。
ですから、お釈迦様(仏)・仏様の教え(法)・仏様のコミュニティー(僧)に帰依をし、
またこの仏法僧(ぶっぽうそう)を仏教徒の三宝として生きていくのが菩薩なのです。
そして、その菩薩の修行が六波羅蜜の修行であり、般若の智慧がなければ、
前の五つの波羅蜜も空回りの修行となるでしょう。

般若波羅蜜の修行は我々が生涯を通して行うべき実践であり、その奥の深さは広大無辺です。
般若心経とその実践を通して皆様と共に学んでいきたいと思っております

禅昌泰賢


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