[0021] ひとも 私も 活かされる 己の生き方 (2008/04/18)
修証義 第九節 懺悔すれば心が磨かれる 其の大旨は、 願わくは我れ設ひ過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、 仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ、 学道障り無からしめ、 其の功徳法門普ねく無尽法界に充満彌綸せらん、 哀れみを我に分布すべし、 仏祖の往昔は吾等なり、 吾等が当来は仏祖ならん。 「懺悔すれば心が磨かれる」とある人に申しますと「わしは何にも人に迷惑を掛けるような悪いことをしてはいない、だから懺悔をしなければならない覚えはない」とおっしゃる方がありました。 仏道で言われる罪過というのは、人に迷惑を掛けたとか、事物に対照して善悪・罪過を申すのではなく。 人間の本性としてある自己中心の貪りや嫉妬とか妬みという愚かさ、怒りなどから起こる、己が気づかない内に知らず、知らず犯す罪過を言うのです。 私は古希をすぎて又住職引退を前にして、これまで過ごしてきた人生をつくづくと考えさせられます。 人間として御仏の御命を授かりながら疎かな生き方をしては来なかったか。三児の親としてその役割はこれで良かったのか、子供や孫達のわがままな一面を見ると。私の最大の欠点の遺伝子ばかりが目に付きます。 四十七年前、住職したときはどちらに向いて踏み出せばいいのか暗中模索でした。 ただひたすら日々仏道は如何に、お寺は如何にあるべきか、などと自らに問いかけている内に、四十七年が過ぎ、自分では大きな寺とか、小さい寺とか考えたことはありませんが、人様が禅昌寺は大きいとおっしゃる。 いま率直に思うことは「これで良かったのかな、後世に大変な負担を負わせる物を残してしまったのではないか」と回顧することが多くあります。 その都度思うことは奈良や京都・鎌倉などの荘厳な甍を思えば「よくぞ護持されてきたものだな」と感心するばかりです。 大寺院と言われる伽藍がどんなに立派であっても、その中で営まれる信仰・仏道といった僧伽(仏道修行の仲間集団を言う)の営みが問われます。 そのように自分の命としての肉体という伽藍が如何に頑丈で長命であっても、我見我慢に満ちた人間であっては、自然や環境、人を生かすこともおろか、授かっている己の命を活かすことすら出来ないで一生を過ごしてしまうことを示唆されているように思います。 例え愚かで過ち多くすごす人間であっても、懺悔によって仏道に(真実の姿に)出会い目覚めることが出来たとき「諸仏諸祖は過去の愚かさをお許し下さり、懺悔の功徳は御仏のお慈悲となって天地と我とが同時に活かされる姿が現れる」と申されているのであります。 それこそ南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧の世界なのです。 |