今月の法話

[0019] 懺悔してこそ救われる! (2007/11/01)


修証義 第二章「懺悔滅罪」
仏祖憐れみの余り広大の慈門を開き置けり、
是れ一切衆生を証入せしめんが為なり、
人天誰か入らざらん、
彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、
懺悔するが如きは、
重きを転じて軽受せしむ。
また滅罪清浄ならしむるなり


 前号までの、修証義第一章は仏教の概要が説かれ、自己の目覚めが促されていました。

 仏教はお釈迦様が人間の命を「本来本法性・天然自性身」(一切衆生は本来そのまま仏)とお覚りになったことに始まりました。

 そのお覚りを説法されたことを弟子から弟子へと口伝された諸説を後の時代の求道者達が仏教聖典として記録に残したものが教典となったのです。ですから多くの教典に「如是我聞」(我かくの如く聞く)と始まる箇所が多くあるのです。

 お釈迦様のお覚りに対して、私達人間の本質は強欲で自分よがりの生き方をします。

 仏道を修行するということは、この人間の傲慢や強欲な煩悩に苦しむ自己と向き合って、お釈迦様の覚りから生まれた御教えを拠り所として、己を返照(心の奥深くを照らし見る意)することです。

 現代はインターネットを始め情報源が沢山ありますから、わざわざお寺へ来なくても仏教並びに宗教の知識を得ることは出来ます。しかしその知識の受け止め方が自分よがりに学ぶ受け止め方では、仏教(宗教)に学ということにはなりません。

 ある方がよく読書をされ道元禅師の御教えにも帰依されているようには見受けられますが、私とは良く意見が対立していました。その対立の元には自分よがりの解釈があるからです。もちろん私も絶対ではありません。しかしご自分なりの理解をもたれて、上から振りかざされるような物言いをされますと「そうかそうか」「ふんふん」「なるほどなるほど」と、その意見を肯定もしないが否定もしない返事をするしかありません。意見を返さなくなった私を、この方は「和尚は今頃人間的に丸くなってきた」と周囲の人に言っていますが、私に対するご本人の態度には「疑心暗鬼」で接していることが伺えるのです。

 真の安心を得るには禅問答に象徴されるように、キャッチボールのごとく、求道の疑問を投げかければ答えが返される相手が有って「自己を返照」することが出来るといえるでしょう。修行道場での修行は優れた師を求めると共に事事物物に巡り会って「自己を返照」することが大事なのです。

 その仏道の入り口が「懺悔滅罪」なのです。「仏様やお祖師様は憐れみを深くされて、広く大きな慈悲の門を開いてお待ち下さっている、是は一切衆生(善悪・偏見・差別なしの世界)を自己の本性に目覚めさせんが為に、罪業深重の者であろうと懺悔すれば、仏の慈悲に包まれて、重きを転じて軽受せしめ、罪を滅して清浄ならしむなり。」と

 仏道への証入(めざめ)を促されておられるのであります。

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