今月の法話

[0020] 改歳之令辰 (2008/01/08)


今年は十二支の始め戊子(つちのえね)年に当たり皆様と共に格別な願いを込めたいと思います。

生きとし生きるものを ささえ養っている
いのちの大地の地の底から
生きとし生きるものを あらしめている
いのちの根っこの声がひびいてくる 
ほら、それが、今も、休みなく
あなたの胸の奥のドキドキをドキドキさせている
わたしを、こんなわたしでいいのだろうかと、
しきりに考えさせてくれている、
根っこの声を聞こう
根っこのねがいに耳を傾けて
自分を点検しよう。

この詩は教育者 故東井義雄先生が昭和五十五年頃私宛に下さった、長文の「根っこのねがい」という詩文の最後の部分です。
本年も相変わらず宜しくお願いいたします。


懺悔すれば新たな自分に出会える。
(修証義 第八節)

然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし、
恁麼するとき前仏懺悔の功徳力我を拯ひて清浄ならしむ、
此の功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり、
浄信一現するとき、自佗同く転ぜらるるなり、
其利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ

 この節に述べておられる「懺悔」というのは、日々の行為に対しての反省的な意味ではありません。私に授かっている命の本性は如何に、本心・真心とは如何になどと、自己の心の深奥を御仏に照らして見るという、人や自己の感情等にとらわれない、清浄無垢のところで自己を返照してみると言うことです。

 直訳をしますと
 「そうであれば真心を持って御仏の御前に懺悔しなさい、そうすればその功徳の力が働いて我をすくい清浄ならしむ、この功徳は諸々のさまたげを無くして、私の中に具わっている清浄信が盛んになって自分も他人も森羅万象が一体となり、その利益を蒙る」と言われるのであります。

 私が この節から学ぶことは「良きに付け悪しきに付け、人々との出会いに生かされた人生であったことをつくづく感謝しながらも、事事物物との出会い、仕事の時も遊びの時も、楽しい時も辛いときも、その時々を疎かにはしていないか、量り知ることのできない、授かっている命を遺漏無く生き尽くしているか」と問われているように思うのです。

 東井義雄先生の「根っこのねがい」これこそこの節に説かれている「懺悔」そのものと言えるでしょう。

<Back|Top|Next>
このシステムはColumn HTMLカスタマイズしたものです。