今月の法話

[0032] 菩薩(ぼさつ)の誓願(せいがん) (2014/11/27)


四(し)弘(ぐ)誓(せい)願文(がんもん)(四つの大きな誓いと願い)

衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)
((命あるものはかぎりなく存在するが、その救済を誓い願います)

煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
((煩悩は尽きることなくうまれてくるが、それを断つことを誓い願います)

法門(ほうもん)無量(むりょう)誓願学(せいがんがく)
((お釈迦様の御教えははかりしれないが、それを学ぶことを誓い願います)

仏道(ぶつどう)無上(むじょう)誓願(せいがん)成(じょう)
((お釈迦様の道にこの上はないが、成仏することを誓い願います)

 

菩薩(ぼさつ)の誓願(せいがん)

前述の四(し)弘(ぐ)誓(せい)願文(がんもん)は、ご法事などの読経の最後に私がいつも唱えている偈文です。
これは、すべての菩薩が普遍的に追求すべき誓願とされていますが、菩薩っていったい何でしょうか?

お釈迦様が無くなった後、百年もすると出家者が中心となって、お釈迦様の御教えが経典としてまとめられるようになりました。しかし、年代と共にその量が増え、出家者は経典の学問的解説や自分が解脱する為の修行に専念するようになり、
一般社会や在家信者との関わりをあまりもたなくなっていきます。そうした出家僧団が分裂を重ね、
最終的には二十ぐらいの部派ができたそうです。これを部派(ぶは)仏教(ぶっきょう)といいます。
この部派(ぶは)仏教(ぶっきょう)の人たちは、自分たちはお釈迦様のように仏にはなれないと考えていたので、
菩薩とはお悟りをひらかれる前のお釈迦様のことをいっていました。

しかし、そうした部派(ぶは)仏教(ぶっきょう)に対して多くの在家信者は疑問を抱くようになっていきます。
本来お釈迦様は、苦しみ悩む人々が救われ安らぎを得るためには、どうするべきかを説かれていたはずなのに、
なんだかおかしいぞという在家の人たちが中心となって新しい流れができていきます。
これを大乗(だいじょう)仏教(ぶっきょう)といいます。この大乗(だいじょう)仏教(ぶっきょう)がヒマラヤを越え
中国に伝えられ、日本へと伝わってきたのです。

このインドにおける大乗(だいじょう)仏教(ぶっきょう)の人たちは、自分たちと同じ人間のお釈迦様が仏に成れたのだから、
煩悩の尽きることない自分たちでもお釈迦様と同じ修行をしていけば、将来仏に成ることができると考えました。
そして、その修行を行い成仏の道を求める人はみな菩薩だということになったわけです。

ここでいう修行とは、お釈迦様が菩薩であるときに修行されたという六波羅蜜(ろくはらみつ)の修行のことなのですが、
六波羅蜜(ろくはらみつ)の修行については、「菩薩の修行」と題して次号でお話しします。

言葉の意味として菩薩とは、ボーディ・サットヴァ [bodhisattva]というサンスクリット語を漢字に音写したもので、
ボーディは「目覚め」、サットヴァは「心や感情をもった存在」ということで、人間を意味します。
つまり菩薩とは「目覚めた人」という意味になります。 我々が普段の生活の中で、親からいただいた名前で呼ばれている
自分が、確固不動の自分と思いこんでいますが、その自分は実は状況や環境により移り変わりますし、
世の中すべてのものが、常に移り変わり、確実な不動の存在ではありません。そういう現実に目覚めた人ということです。
その菩薩の誓願が、四(し)弘(ぐ)誓(せい)願文(がんもん)(四つの大きな誓いと願い)なのです。

我々が受け継いでいる日本の仏教は、この大乗(だいじょう)仏教(ぶっきょう)であり、もとは在家の方々の運動により
興ったものです。いま日本は未曽有の災害に見舞われ、これまで確固不動と思われた生活が崩れ去ってしまいました。
絶対安全のはずの原発も不動に安全なものではありませんでした。まるで夢や幻を見ているようですが、
これが真実であり確固不動と思って生きている我々が実は夢の中で生きているようなものなのです。
今こそ我々は目を覚まし、成仏(じょうぶつ)道(どう)を求めるべきではないでしょうか。
皆さんも道を求める心を起こせば、菩薩なのです。


<Back|Top|Next>
このシステムはColumn HTMLカスタマイズしたものです。