今月の法話

[0003] 勝縁(しょうえん)に生かされる (2003/11/05)


 還暦から数年が過ぎ住職の禅譲もそろそろ考えねばという昨今。自らの人生を振り返ると同時に、自らの終焉をも考える事が多くなりました。今日まで正に勝縁(素晴らしい出会い)に恵まれた境涯を感謝しています。必ずしも順風満帆と言うことではないけれども、順逆共に勝縁と受けとめてこそ人生豊と言えるように思います。
 金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)の一節に「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごうしん)」「応に住する所無くして其の心を生ずべし」と直訳されます。心の用い方を指南されているのです。私は20歳で出家してこの教えに出会って以来、自身の生き方の拠り所として参りました。
 とらわれない心、仏道修行に励んでいる頃「ぶつどう・ぶつどう・・・・・・・」仏道にとらわれ執着すると、却って仏道を見失うと師から言われました。これは生老病死におきましても然りで、「しあわせ・しあわせ・・・・・」と幸せを追い求めるが余り、幸せが何であるかを見失うとも申せるでしょう。
 ドイツ生まれの詩人で、ノーベル賞受賞者ヘルマン・ヘッセ(1877年〜1962年)の、詩に幸福と言う一文があります。


幸福
幸福を追いかけている間は、
お前は幸福であり得るだけに成熟していない、
たとえ最愛のものがすべてお前のものになったとしても。
失ったものを惜しんで嘆き、
色々の目あてを持ち、あくせくとしている間は、 
お前はまだ平和が何であるかを知らない。 
すべての願いを諦め、 
目あても欲望ももはや知らず、 
幸福、幸福と言い立てなくなった時、
その時はじめて、でき事の流れがもはや、
お前の心に迫らなくなり、お前の魂は落ちつく。


 この詩は私が大学生時代、親からの仕送りもなく苦学を強いられていた頃、心の慰めに繰り返し読んだものです。いま思いますとけっして「苦学」ではなく、掛け替えのない出会いの日々で有ったと思います。当時先の見えない辛い日々でしたが、苦楽を忘れて日々の出会いの一つ一つを真正面から受けとめて生きることを示唆してくれたように思います。
 人生は自らの好むと好まざるに関わらず、色々な事物に出会います。その時心に偏見が在れば素直に受け入れられないものです。自分よがりの卑しい偏見を持つ者は偏見があるが故に自分に偏見の在ることに気が付かないどころか、他人の真心・真実をも傷つける結果を招くこともある事を学ばなければならないと思います。
 時下は不景気風が吹く中に、世界中を震撼させたテロを切っ掛けに、人々は恐怖に戦き、世界中の政治経済を始めとする多くの社会混乱を引き起こしたもとには、テロリストも世人も一人一人の心の用い方に起因するところで在りましょう。
 勝縁とは過去からの巡り合わせが個としての自己に具現され、更に未来へ普遍的に巡らされてこそ、自己がこの世に存在した意味が在ると言えます。天地一杯から頂いたこの人生を、天地一杯に生きて、天地一杯に巡らせてこそ、仏となるのです。

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