今月の法話

[0005] 生かされている幸せ (2004/04/28)


 修証義の冒頭に「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と有りますように、人間は「生」と「死」が裏打ちされて生かされていることに目覚め、この生死の因縁を如何に結んでゆくかということが、仏教徒として一番大事と諭されています。
 毎日の出来事や出会いの中で、いろんな事を学ばせて頂きます。ここに某老婦人との出会いをご紹介し「生死」について考えてみたいと思います。

 この方は昭和63年4月頃より婦人坐禅会に参加されるようになって、平成8年12月8日この年の最後の坐禅会が終わり、「お正月の坐禅会でお会いしましょう」と言ってお別れしたのですが、12月24日未明に享年満90歳で急逝されました。
 老婦人は時にはお休みもありましたが、毎週の如く参禅される内に会員の方々とも打ち解けられたある時「自分は結婚して満州に渡り最初に女の子を授かった。その子が三口で生まれ、何故にこの様な醜い子を私に……と恨んだ。この子の将来を考えると悲観的なことばかりを考えて、いっそのことこの子と一緒に死んでしまいたいと、来る日も来る日も死ぬことばかりを考えていたある日、今日こそはと意を決したとき、『その子はお前でなければ育てられないからお前に授けたんだ』と囁くものを感じて、そうだったのかと己の浅はかさを恥じて『この子が幸せな人生を過ごすには親として自分は何をしてやれば良いのか』と自分に問いかけた、『健康で明るい子に育てよう』と一生懸命育てた。お陰様で今は5人の子供の中で一番幸せに暮らしている、優しい夫に恵まれ、明るく健康で人々に可愛がられている」と生かされた苦難の人生を悦びとして吐露しておられました。

 こうしたお話を拝聴し、こんな事を思います。「生きる」ということは、「他を生かすという営みが、我も生かされる」ということのように思います。
 人はどうしても自分中心の人生を考えるのが自然です。だから苦悩し卑屈になったり悲観したり孤独におちいったり、時に傲慢に振る舞うのではないでしょうか。
 この老婦人が『その子はお前でなければ育てられないからお前に授けたんだ』という囁きを脳裏に聴いたとき客観的自己の生き方を心に問われたことで、苦難の多い人生では有ったでしょうが、悔いのない人生であられたことと思います。 
 「順風満帆の人生というのは本当に幸せなのでしょうか」と思うことがあります。逆境に立たされた時こそ、自分と向き合えるということを度々経験し、その都度新たなる自分と出会えたように思います。

 私が日頃ご懇意にして頂いているご夫妻の奥様は、10年位前から腎臓を煩われて週3回透析をしておられます。この方は何時も清楚なお洒落と微笑みも豊かで、何処に病気をお持ちかと不思議に感じるほど前向きに生きておられるお方です。
 ある時家内同伴で食事をしながらのこと、
「私の若い頃は何時も行動的でした。透析を始めて、透析の数時間読書ができ健康なときには気がつかなかった時間の尊さを知りました」と話された。これを聴いてはっと元気印の己の慌ただしい日々を恥じたことでした。

 人生は誰もが生老病死の苦しみに、恐怖や孤独や不安を背負って生きなければなりません。だからこそお互いに素直に、語りたい・理解されたい・手をさしのべてほしいという、気持ちを表して生きるとき、互いの心が相手に伝わり相互理解が生まれ、お互いを生かす「人間」という「生」が存在し、寄り添うという安心が得られ、皆共に往生してゆけるということではないでしょうか。

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