今月の法話

[0006] 現代医療から「生・老・病・死」を考える (2004/04/28)


 数年前からこんな現象が起こり始めた。7年前の話だが、長年お寺の役員を務めて下さった方が、解離性動脈瘤と診断されその手術を前にして、私に話したいことがあると言づてがあり伺った時、医師から図に書いての手術の説明を受けた話をそのまま話されて、方丈に頼みがあると言われた
「私は助からないかも知れない、医師には手術がうまくいかなくても、無駄な延命処置はせぬよう尊厳死させて欲しい旨を伝えてある、その時には宜しく頼む」と、
ご自分の葬儀の段取りなど息子に託す前の相談があり、堅い握手を交わして分かれた。

 その夜突然動脈瘤が破裂して集中治療室に搬入された、既に多量出血し脳死状態となっていた、家族が「本人は尊厳死を望んでいるのだが」と言うと医師は任せてくれ少し見させてくれと言われるまま66日後に71才で逝かれた。
 尊厳死とはどんな逝き方を言うのかを考えさせられた時である。
 その後も「方丈さん、父が倒れて意識不明の危篤状態にある、医師から何時逝ってもおかしくない、身近な方には状況を知らせておくよう言われた」と知らされて数ヶ月後に逝く人、数年も人工的に生かされているという現実がある。
 格別親しい関係にあった方を見舞った時のことだが、付き添う人もなく鼻からチューブを通され横臥されていた。それから既に2年は過ぎる、往年の輝いた日々を過ごされていたことを思うと、哀れと空しさがこみあげる。

 私の竹馬の友に名医と言って過言でない医者が居る。彼が言っていた「大学医学部のクラス会に参加してイヤになった、何奴も此奴も経営する病院の病室の数や従業員の数、患者を何人抱えているなどと誇らしげに自慢し合う。
 医者というのは病気を治す職人でなくてはならない!如何に早く病を治し癒してやるか、専門外の病に適切なアドバイスをして専門医に送るかである、病院の規模などどうでも良い。問題は医療の中身だ」と嘆いていた。

 檀家の頑固なお爺ちゃんが体調を崩して、居住地域で数十ベッドを有した個人病院に掛かって沢山の薬を投与されていた、奥さんがあまりにも多い薬の量に「薬の飲み過ぎではないかと」疑問に思っていた。しかし夫は「先生の勧められる薬だから」と飲み続けた、そのうち意識不明となって寝たきりとなった、家族の周辺では死が間近と思っていた。
 意識不明となってからは医師が毎日栄養剤を点滴に来るだけで処置のしようもなかった。ところが彼岸のお参りに伺って驚いた「方丈さん死に損ないました!」と元気になっておられた。奥さんの話を聞くと寝たっきりになったから薬を飲ませることをやめたら数日後に意識が戻り、起きあがれるようになったと。
 また今年春檀家の娘さんの主人が食欲が無く、胃がおかしいと訴えて、近くの個人病院で診てもらったが詳しい診察もせず「胃潰瘍でしょう」と言われて入院し十日も過ぎるが衰弱するばかりで一向に改善しないことに妻が疑問を持ち、院長に早く善処するように強く訴えた、それじゃーと公立病院を紹介されて検査の結果、即入院即手術となったが若い命は病根も勢いが強く、にわかに不帰の人となった。院長は「私の見立てが悪かった」と謝ったそうだが無念である。
 先述の竹馬の友、名医をホームドクターに持っていることを感謝する。

 仏教では生・老・病・死を諸々の苦しみの元として四苦という。この時、生・老・病・死を別々に捉えないで生きる、生かされるということは老病死もひっくるめて受けとめなくてはなりません。
 老病死を先送りして今を生きるのではなく、老病死をしっかり意識して、今日の命をどう戴いて生きるかは、食をどう戴くか、身体機能を日々機に応じ便に応じて働かすかに有ると思う。健康的に生きるためには転ばぬ先の杖として、良いホームドクターを持つことをお奨めする。

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