今月の法話

[0009] 歩む (2005/02/01)


 今年の歌会始の勅題は「歩む」でした、禅昌寺の道場に「歩々是道場」と書かれた扁額があります。これは錬成道場「道心寮」が落成した折りに、私が師と仰ぎ長年ご指導戴き、弟子の泰賢・宗賢の授戒師でもあられる、新居浜市瑞応寺二十九世・前大本山永平寺副貫首故楢崎一光老師の染筆です。
 仏道修行の用心をお示しになっているのですが。仏道修行に限らずどんな道を修行することにおいても、特別なことではなくて日常の一つ一つ、一歩一歩が全て修行の道場となることを教示されているのです。
 「歩(あゆむ)」を「歩(ぶ)」と読みますと、長さや広さの単位となることを考えてみますと、生きていく上での基本とも解釈されるのではないでしょうか。 
 道場と言う熟語の意味は「いのちを育む処」ということですから、「歩々是道場」とは日々の暮らしの一つ一つを大事に生きると言うことでしょう。
 この「大事に生きる」という生き方とはどんな生き方でしょうか。私は最近自分の人生を振り返ってみることが多くなりました。
 人々を始め事事物物との出会いの全てが、私を支え活かしてくれたように思うのです。
 楽しい人や出来事に出会って癒され、辛かった事は智慧と忍耐を与えてくれたように思います、人柄に優しさがにじみ出ている人に出会ったとき、自分の優しさは如何かと問いかけられました。
 煩悩の燃えさかる享楽に溺れながらも一方で歴史小説や絵画・宗教等幅広く文学を愛する男に出会って、理想ばかりを追い求める自分の生臭さに気づかされました。挙げれば切りがありません。
 この様な多くの出会いの中で禅昌寺の伽藍を建築された村上和一さんが、一緒に中国地方の山々を巡って手に入れた檜の用材を製材するとき言われた言葉が「この檜は皆が手を合わせに来る本堂となる縁を持って生まれてきとるンよ、一寸たりとも粗末にャ〜できゃんせんけ〜ノ〜」とこのように出会った一本の檜に自分の生き様を刻む真剣な生き方が禅昌寺の美しい伽藍を生み出したのではないでしょうか。
 様々な出会いによって自分が活かされていることを感謝するばかりです。
 私は最近若い人に出会う毎に「燃えてますか」と尋ねることを心がけております。期待する「燃えている」と応える人は稀です。思うに「燃える」と言う意味を良く理解していないように感じます。また生きる情熱が伝わってくる若者が少ないように言われる中で、十年前の阪神淡路大震災の時、救援活動に見た若者の生き生きと活動する姿に、場所と機会があれば自然と燃えるのだと知りました。
 戦前戦後世代は、上を上をと眼差しを置いてきた結果、世界に誇る繁栄と物質的豊かさを生みましたが、足下を見つめる地固めを蔑ろにしてきたことを反省するときに、「歩む」という勅題は終戦の還暦を迎えるに相応しい文字と思います。
 上を上をと燃えてきた世代の私を始めお互いは、燃え尽きてしまったでは、悠久の日本歴史に憂いを残しはしないかと思います。
 今の時代こそ祖先が遺してくれた「三つ子の魂百まで」の教訓を、幼児が歩み始めた時より一歩一歩出会う一つ一つが大事であることを次世代へ示すときだと思います。
 孫の手を引いてお寺へ歩みを進めて下さい、お声が掛かればそちらへ歩みを進めます。
 子や孫に恵まれなかったお方にも、一人では重過ぎるお荷物を、背負って戸惑っているお方がありましたら、お寺へ荷を下ろしにおこし下さい、何かお役に立ちたいとお待ちしております。
 焼き直しの出来ない人生だから、緩やかでも良いから確実な歩みを促されているように思います。

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