今月の法話

[0010] 気配り 「心が心にこだまする生き方」 (2005/05/06)


 宗門に「正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)」という私たち曹洞宗の僧侶であれば誰もが生き方や修行の拠り所としている宗祖道元禅師の弟子孤雲懐奘(こうんえじょう・永平寺二祖)様の遺された著書があります。
 道元禅師ご在世の時、禅師のおそばにいて身の回りのお世話をされていて、常日頃の修行や生活の中で、お師匠様の言われることを、聞くに随ってメモ的に記述されたものですから「随聞記(ずいもんき)」というわけです。
 その中に「学道の用心は和敬同心(わけいどうしん)にあり」とご教示があります。紙面の関係でいきなり読み下して記しますと、「在家の人でさえ、家を保ち、城を守るのに、心を一つにしないと、ついには亡びてしまうと言っている。ましてや、出家の仏弟子は、一人の師匠のもとで、水と乳がとけ合ったようなものである。また、六和敬という法もある。めいめいが個人の部屋を持って、心もからだも互いにへだてて、各自思い思いに仏道を学ぼうと心がけてはならない。一師のもとでの学道は、一つの船に乗って海を渡るようなものである。心を同じくし、行、住、坐、臥を同じくし互いに悪いところは注意しあい、よいところはとりあって、同じように仏道を学ぶべきである。これが仏在世の当時から行ってきたやり方である」(水野弥穂子訳)とあります。
 この中にある六和敬というのは、僧は和合を義とすることが求められますが、和合には理和合という理性的和合と、事和合という形や行動に表れる和合が、慈念の心を持って身と口と意によって行われることであります。
 このご教示は仏道修行の用心に止まらず、私たちの日常生活におきましても大事なことと考えます。
 自由・平等という考えを基に戦後六十年が過ぎましたが、今の日本社会が抱えている、政治不信・産業界の失墜・教育不審・家庭崩壊と嘆かれるもとには、自我を中心とした自由・平等の思考が生み出した結果ではなかろうかと危惧されるとき、此処に示された六和敬は、宗派を問わず仏教の個(己・自分・もの)のありようを、一即一切(いちそくいっさい)・一切即一(いっさいそくいち)として存在する中での生き方や考え方を教示されているのです。言い換えると、「己は自然や社会によって存在し・自然や社会は己の責任のもとにある」と示唆しているのです。
 いま地球温暖化現象とか自然破壊とか言われることも自然環境を無視した人間に取って都合の良い身勝手な行為が生み出したことではないでしょうか。自由ということはこうした自然環境とか社会という関わりの中で許されることですし、平等とは上も下もなく平らにという次元ではなく、森羅万象(しんらばんしょう)に包まれて存在する全てが、自然界も人間も平等に得難き尊い命を戴いていることを、敬って自覚しなければいけないように思います。万物融合・自他和合の思いやりや気配りが大切に思います。
 我が家も副住職夫婦は渡米して十二年、孫達は米国生まれの米国育ちの家族が三月に帰国しました。三世代同居となって一番気苦労をするのは嫁であろうと、家内と私は話し合って「嫁さんが気苦労なく、やりやすいようにしてあげようや!」「そうしましょう!」と家内の快諾を得て、四月一日「家計と家事一切の切り盛りを引き渡します」(お寺のことは別)と引き渡し式をしました。
 帰国して一カ月も経たない内に責任を押しつけられた嫁さんこそ、かえって気遣うのではなかろうかと思います。家の中の個々別々が一つになる気配りが、互いを活かし合い、和敬同心の基となることを祈ります。

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