今月の法話

[0011] 祈りの日 八月六日 (2005/08/04)


 申すまでもなく昭和二十年八月六日は、人類史上始めて使用された原子爆弾が広島の上空で炸裂した日である。この頃禅昌寺は現在の中区薬研堀にあり、爆心地より一キロメートル以内に位置していた。約六百坪の境内には現在の本堂と同じ規模の本堂と庫裡の外、鐘楼堂・稲荷堂があり、柿木や柳の木が茂った街中にありながら荘厳な雰囲気をかもし、子供達の恰好の遊び場となっていたようである。
 広島城は天正十五年(一五八七年)頃、城地の選定に着手し天正十九年(一五九一年)四月毛利輝元によって築城され、禅昌寺の創建された元和元年(一六一五年)城主福島正則当時の薬研堀は医者や学者といった文化人の多く住む町であったようである。
 明治時代に入り広島は次第に日本一の軍都と化し、造船・兵器工場など軍需産業が盛んとなり人口が急増し、それが人類史上最初の原子爆弾投下の標的となったともいわれる。薬研堀一帯も歓楽街と変容していった。
 当時禅昌寺の境内には商売繁盛を祈願する豊川稲荷社が祀られていて縁日には賑わい、芸者さん達も詣でる下町情緒豊かな風情をかもす寺であったそうだ。
 盂蘭盆施餓鬼法要は毎年八月五日夕刻、歓楽街の賑わいが始まるころ営まれていたようである。妻仁子は二歳の時、昭和十七年当山の二十二代住職となった父と母と共にこの寺に入り五才になったばかりだった。
 昭和二十年八月六日は、前日お寺にとって年間の一大行事である、施餓鬼法要をすませ一息ついた朝。一人娘仁子は、当時お寺の本堂で分散授業をしていた小学校の授業の始まりを待つ児童の様子を、回廊に頬杖をついて眺めていた。両親はたまたまお墓参りに来た檀家の人と、庫裡の縁側に腰掛けて談笑する長閑な朝であった。
 午前八時十五分原子爆弾が炸裂した。妻はこの時のことはほとんど覚えていないという。両親は幸いに縁先にいて倒壊した庫裡の軒下に埋まったものの、大した傷もなく這い出して、倒壊した本堂と庫裡の間に無傷で立っていた妻を抱えて比治山方面から段原町を通って府中町の長福寺さんへ逃れた。数日後両親は妻を長福寺に置いたまま、火災の治まった焼け跡へ作業に通ったそうだ。その間に放射能に汚染され、母は一ヶ月後の九月十日に原爆症で亡くなり、父も昭和二十九年、妻中学二年生の四月六日始業式の日、原爆症による癌で亡くなった。
 被爆の日、本堂に集まっていた三十数名の小学生の内、唯一人倒壊した本堂の瓦礫の下から足をのぞかせていた少女は、住職に引き出されて助かり、今も元気でおられる。他の児童たちは火の手が迫る中、助けようもなく多くが焼死したそうである。
 今年は人類最初の大量殺戮爆弾が炸裂して六十年、広島市民は八月六日を世界平和を祈る日として世界に訴えてきたが、世界の怨念の対立は深まるばかりである。国内にあっては犯罪の低年齢化や残虐な犯罪が氾濫している状況はけっして平和国家とはいえない。被爆と終戦の還暦を迎える時、六十年前貧困と憔悴から逞しく歩みを進められた私の親世代の目指した願いや祈りは如何にあったか考えさせられる。
 法句経の一句に
  勝つ者 怨みを招かん
   他に敗れたる者 くるしみて臥す 
  されど 勝敗の二つを棄てて
   こころ寂静なる人は 
    起居ともに さいわいなり
とある。
 スポーツやゲームの上での公平な勝負はお互いを鼓舞し互いに活かされるものであるが、自己顕示と利己的な振る舞いは、相手を折伏し抹殺することを考える、故に怨みをかい、己も抹殺される因となる。
 勝ち負けの対立をやめて 他(森羅万象)に活かされていることに目覚めたとき、自らの生き方が見えてくることを示唆されている。
 八月六日は仏教徒としてどのように平和を祈り実践するかが問われる日であると思う。

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