今月の法話

[0012] 「不安の力」五木寛之著を読んで (2005/11/29)


 先日書店に立ち寄って新書が並べられてある店頭で「不安の力」(五木寛之著)が目について、早速求めて読み始めると一言一句納得できる内容でした。
 この書は、「ぼくはこんなふうに不安を生きてきた」という見出しに始まり。
 「不安。いまぼくは、なんともいえない不安の中に生きている。不安。その言葉には、どこか重苦しいイメージがある。
 不安の姿をはっきりと見さだめた人はいません。「なんとなく」、そして「言い表しようのない」、そんな不気味で曖昧な感覚が不安にはあります」と書きおこされています。
 実は私も不安の中に生きているのです。
 だからこの本の題名が目についたとき、外には目もくれず手にしました。
 何が不安かと言うと、あれもこれもと限りがありません。
 今春より孫と暮らすようになり、現代の学校の様子が見えてきて、通学途上の小中学生の行動や表情が以前にまして目につくようになりました。
 いま小中学生の間でいじめが蔓延していると聴きます。児童生徒のみならず、職場においても若い世代を中心に、いじめがあるといわれることを、身近に見聞きするようになりました。
 これらの元には、不安を抱える者どおしが連んで、目障りになる相手を無視したり攻撃するという陰湿ないじめがあるそうです。
 教育とか躾はどうなっているのか、少子化といわれる中で子供をわがままに育てているのではないかと心配です。
 高齢化社会の医療制度を始め、社会制度はこれで良いのか等々、考えると不安は募るばかりです。
 寺報の発刊は私自身の不安解消の手段として思い立ったものでもあります。
 寺報「道心」を最初に発刊したのは昭和四十二年一月第一号を発行し、数回の発行で頓挫しました。その後昭和五十六年頃、禅昌寺坐禅会の事務局で再刊され数年続きましたが、またもや休刊となりました。原因は原稿が集まらなかったのです。
 現在の紙面の構成で再刊して十九号目となりますが、原稿が集まらないので何時まで続きましょうか?
 浅学非才の自分を啓発すること、仏法の学びや日常のありようなどに私見を述べて相互理解を深めること、書く側読む側双方の刺激となることを願っています。
 しかしどれ程の方々がお読み下さり、ご理解を戴けているかは知れません。
 孫の作文を二度掲載した折に、お読み下さった方々から「お孫さん可愛いですね」等の反応があり、ある程度読まれているという実感を味わうことが出来ました。
 お寺は人々の癒しの場となり、心の拠り所となり、僧は勝友として人々の癒しの介助者でありたいと考えております。
 しかしお寺の行事に直接的に参加する人は檀信徒の三分の一と少なく。檀信徒の皆様は生活の中で菩提寺をどのように受け入れて下さっているのか自問自答し、己の非力にむち打つところです。
 欧米にあっても若者の教会離れが嘆かれていると聴きます。そんな中で仏教への感心は高まっているといわれ、欧米の主要大学には仏教学や宗祖道元禅師の研究が盛んに行われているといわれる。何故だろう…
 一方で世界的な規模で、オカルト的宗教や迷信を説く脅迫的宗教に傾倒する人が多いといわれる元には「不安」から起きる現象かも知れません。
 そんな中でこの本と出会い、ぜひお読みいただきたいとご紹介する次第です。
 五木寛之さんは敬虔な仏教徒だと思います。五木さんの著書には親鸞上人の説かれた抄など浄土真宗の教典を拠り所とされた比喩(例え話)が多く出てきます。
 しかし宗派にこだわった仏教ではないから論説が素直に理解できるのだと思います。
 禅昌寺の坐禅会や講座に来られる浄土真宗の門徒の方が「坐禅をし、禅の講座を聴いて親鸞上人の教えが良く理解できるようになった」と言われます。
 「不安」はこだわり無く縦横に眼を開き、素直に耳を傾けるとき、生きる力となることが示唆されているように思いました。

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