今月の法話

[0016] 因果歴然 修証義 第四節 (2007/01/23)


今の世に因果を知らず業報を明めず、
三世を知らず、善悪を弁まへざる邪見の党侶には群すべからず、
大凡因果の道理歴然として私なし、
造悪の者は堕ち修善の者は陞る、
毫釐もたがはざるなり、
若し因果亡じて虚しからんが如きは、
諸仏の出世あるべからず、
祖師の西来あるべからず。


 「今の世に因果を知らず業報を明めず」というのは、道元禅師ご自身ご在世の今を言っておられます、
己の生き方の報いは、己の生き方に原因があり結果を招くことに目覚めていないということを、「三世を知らず」と申されているのであります。
 今の世に善悪を弁えないで生きている仲間にはなるなと言われている。
 己の今日の営み(生き方)は、命と共に父祖の営みとして、私に授かり、私をして現世に普遍され、さらに子々孫々へと伝承される過去・現在・未来を三世といわれるのであります。
 今を生きる己の営みは過去の結果として在り、今をどう受け止めて如何に生きるかの生き方が明日か、後日か、数年後か、己の死後かに結果が現れる道理に目覚めて生きることを強く示唆されているのです。
「若し因果亡じて虚からんが如きは」もし因果の道理を無視して生きるようであれば虚しいことである。人間の生き方がそうであるならば、お釈迦様のお覚りも、だるま様の教えも今日に伝わるということもなかったであろうと申されるのであります。
 お釈迦様も若い頃ご自身、人生に苦悩され出家されご修行された後に、移ろいゆく中に生かされている己に目覚められ、諸行無常・諸法無我の道理を覚られ、人間としての有り様を説かれたのが仏教なのです。
 この節で大事なことは「大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は墜ち修善の者は陞る、毫釐もたがはざるなり」ということにあると思います。
 ここに言われる善悪は人間が分別する善とか悪を言われているのではありません、私たちが考える善とか悪とかは人間の価値観が基になって分別しますが、それは人間の仮の姿であって、真実に照らして善か悪かという、善悪に目覚めて生きなければ人生を虚しく過ごすことになることを、戒めておられるのであります。私はこの戒めを次のように受け止めております。
 己の現実が苦であろうと楽であろうと、現実を素直に受け止めて、今の命の有り様に目覚めて、過去も現在も未来も共に、今という現実の営みとして生きる生き方を示唆されていると思うのであります。
 私が今年古希を迎えたことは道心二十三号で申しましたが、古希の人生を振り返って見るとき、つくづく考えさせられることがあります。
 現代の世界や日本国の世情を考えると決して満足できる境涯とはいえませんが、私個人としての人生を振り返ってみますと、家庭・人・あらゆる巡り合わせ、貧しくて苦学の時も、小学生の頃病弱であったことも、癌を患ったことも、物質的損失を被ったことも、期待が裏切られたことも全てが、私の生きる知恵と力になって不思議に恵まれていることを実感いたします。
 それを思うとき自分の能力や努力では及ばないものに気づき、幼い頃から知らず、知らず両親から仕付けられていたことや、周りの環境や人々の影響を受けて生かされていることを思うと、己の生き方も疎かに出来ないことを感じます。

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