今月の法話

[0029] 喜心・老心・大心 (2010/08/06)


 本堂の前の牡丹が、例年より少し遅れて漸く開花しました。今朝は数時間の内に五つ六つと赤や紫の花が開き、牡丹の溜息が聞こえてきそうなほどです。大自然のエネルギーと命の尊さを感じます。

 さて、昨年十一月に禅昌寺住職を拝命し早半年が過ぎ、住職の責任の重さと奥深さを感じながら、十月の晋山式(就任式)並びに記念授戒会に向け準備を進める日々を過ごしております。
 先般皆様にも、十月の大法要のご案内とご説明を郵送させて頂きましたところ、早々に申込みやお問い合わせを頂き、誠に有り難う御座いました。また、更なる説明が必要な方やご質問がある方などおられましたら、どうかご遠慮なく禅昌寺にご連絡下さい。私がご自宅にお伺いしてご説明することも可能ですので、宜しくお願い致します。

 古来禅門では、お台所を司る僧を「典座」と呼んでおりますが、道元禅師は、このお役目に就いた者の心構えを「典座教訓」としてお示しになっておられます。その典座教訓に出てくるみ教えが喜心・老心・大心です。
 喜心とは、人間として生まれ、お釈迦様のみ教えに出会えた好縁を喜悦する心であると説かれています。
 老心とは、老婆心と言い換えることもできますが、自らの貧富を顧みず、ひとえに我が子の成長を念じ、子供が寒ければ、子供に一枚でも多く着せてやろうとする父母の心だと説かれています。
 大心とは、偏らず党を組まず、心を大山にし、大海にして、駆け引きや分別をしない心であると説かれています。
 この三心は、それぞれが別々の心ではなく、水を扱うときも、食材を扱うときも、全てのものに子を養うような慈悲と懇意をもって接し、そういう心を実践することを喜びとするならば、大山や大海のように大きな心を持つことが出来るというお示しであります。

 人は、自分だけのちっぽけな考えや見識だけで、これは好き、これは嫌い、あの人はどうだ、こうだと、ついつい愚痴を言い、ちっぽけな自分だけの世界で、人生を翻弄されてしまうこともあります。また、偏った考えを共有する者が集まり自分達の考えだけが正しいのだと党を組むこともあります。
 偏らない、党を組まない、分別を超え、駆け引き無しの生き方を喜び、共有する人々の集まりを「僧」(僧伽・サンガの略)といい、その人々が集まる場所がお寺です。

 本年十月に修行いたします授戒会が、そのお釈迦様のみ教えを皆様と一緒に実践し深める最初の機会と成ることを祈念しております。
 様々なご都合はあろうかと存じますが、何卒万障お繰り合わせの上、ご参加下さいますようお願い申し上げます。

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